きれいごとは抜きにして

痛みも苦しみも喜びもみんな、生きていることの証。

子供みたいな彼氏

のろけの話ではいっさいない。

いや、一部にのろけも含まれるがそのための話ではない、と言った方が正しい。

 

私には同い年の彼氏がいる。

以前の記事にも書いたが、性格も価値観も、金銭感覚すらも私とはまったく違う。

けれども私は彼が好きだ。

ルックスが良いということ、そして私とは違う分、私の持たないものをたくさん持っているということにとても魅力を感じる。

たとえ喧嘩をしても、眠っている彼の顔を見るだけで怒りの感情が冷めてしまうほどに彼の顔が好きだし、意見の食い違いで論争になっても、「まあ、このひとは私と違うのだから仕方ない」とあきらめがつくほどに性格が真逆だ。

 

ただ、ときおり彼と過ごすことにひどく疲れを感じる。

彼は子供のような性格なので、計画を立ててなにかにじっくり取り組むということが非常に苦手だ。

目の前になにか面白そうなものがあれば、そのときにやらなくてはいけないことそっちのけで飛びついてしまう。

 

生活習慣もまるで子供のようだ。

翌日仕事があるにもかかわらず(たいてい声をかけて起こすのは私なのだが)、夜中の2時3時までTVや漫画を見て笑っている。

同棲している部屋がワンルームなので私もそれにつきあうことになる。私は部屋が明るかったり物音がすると眠れないからだ。

 

スキンシップの仕方も子供の悪ふざけそのものだ。

私の首に足を絡めてきたり、寝ている私にのしかかり、起きて起きてと揺さぶったりもする。

 

こういったことをやめてほしいと、私はいままで何度も彼に伝えてきた。

だが彼はそれは難しいと言う。

スキンシップは自分なりの愛情表現だし、生活習慣も長年そうしてきた結果なのですぐには直せないと。

そして実際直すことはできていない。

 

寝る時間の遅さに関しては、私は最近では諦めている。

帰りが遅く休みもほとんどないいまの生活のなかでは、彼の娯楽は夜更けに見るTVとときどき買う漫画くらいなのは確かだ。

だから、つきあわされることになっても受けいれてあげよう、と。

 

スキンシップに関しても、それはやめて、とそのときそのときで言っていくしかない。

そうすれば一時的にであれ、不快な思いをさせられることは避けられる。

 

そんな彼との生活を続けていると、子育てとはこういうものなのかもしれない、という気分になってきた。

実際にお子さんを育てている方からしたら「そんな失礼な!」と思われるかもしれない。

30を過ぎても幼稚なだけの人間と、これから伸びしろのある子供を一緒にするな、と。

 

だが、子育てというものが、よく聞くように「大変だけどやりがいがある」「戦争のようだけど癒しも感じる」ものだとしたら、その点では私の気持ちと通じるのではないだろうか。

なんだかんだで私は彼氏と一緒にいるのが楽しい。

疲れも不快さも、ときには怒りも湧くが、トータルでは喜びと楽しみの方が多い。

 

だからこれは子育ての予行演習のようなものではないかと思うことにした。

私たちが子供をつくるかどうかはまだわからない。

授かるかどうかもわからないし、そもそも結婚の予定すらまだない。

 

私はそうしたいと思っているが、実際そうなったときに、おたがいが(というよりまず私が)いまよりももっと大変な思いをするのは目に見えている。

だからこれは子供という存在を授かるためのひとつの試練ではないかとも思える。

「自分の思い通りにならない存在」とひとつ屋根の下で暮らし、泣いたり怒ったり、それ以上に一緒に笑うことで、相手の人格を認めていく。

「自分にとても近しい存在でありながら、自分とは違う別個の人格」を受けいれていく。

 

この行為こそが、子育てというものの本質のひとつではないだろうか。

子供のような彼氏との生活を通して、私はそれを学んでいる。